2012/07/14

滋賀県大津市のいじめ自殺問題について

連日のニュースで大津市の中学生がいじめを受けて自殺した問題が取り上げられている。
学校という狭い世界に、生きる場所を故意に奪われ、一人の大切な命が失われてしまったことに深い悲しみがある。

“学校”という世界は子供にとって唯一の世界になってしまっている。それは宇宙から見てほんのほんの極小の世界でしかない。そんな小さな世界に閉じ込められ、その小さな世界で居場所がなくなってしまったなんて、悲しい。




茂木健一郎さんが『自分の関わる集団を多様にすること』と題して、以下のような発言をしていた。


ぼくは、「所属」という言葉が嫌いだ。人間は、どこかの集団に「所属」することでアイデンティティを確立するものではない。フリーランスに対する差別は、無知の現れである。そして、集団との関係は、あくまでも対等なアフィリエーション。たとえ関わるとしても、一つである必要はない。大津で、自殺してしまった中学生は、本当に苦しかったのだと思う。いじめの加害をした生徒たちや、十分な対応ができなかった教師たちは反省して欲しいが、同時に、日本の中学生にとって、「学校」という「集団」の意味が強すぎることも問題だと感じる。だから不調になったとき逃げ場がない。一つの集団の中でうまくいかなかったら、他の居場所があればいい。というよりも、最初から、複数の集団と同時にうまく関わるようにすればいい。これは、ネットワークサイエンスでも示唆されている処方箋であって、他人のためにという利他性が、複数集団において育まれるのだ。学校や、会社といった特定の集団に「所属」するという社会よりも、さらにボランティア、趣味のサークル、ネットの知り合いといったさまざまなかかわりがある社会の方が、「他人のために」という利他性が育まれる。この原理は、いじめのような病理を防御するための、強靱な処方箋だ。具体的に考えてみよう。いじめの「加害者」も中学生に過ぎない。もし彼らが、柔道の道場とか、ボランティア集団とか、そんな場所で先輩や大人に敬意をもって接する訓練を受けていたら。中学校という小さな社会の中で、威張り、弱者をいじめ、悦に入るという愚行を暴走させただろうか?いじめの被害者も、学校に行くのがつらかったとしても、趣味や、ボランティアや、スポーツや、そういう別の集団との関わりがあって、自由な空気を吸い、のびのびとした人間関係を養い、中学校なんていう「小さな社会」は、世界全体から見たら水滴のようなものと気づいていたとしたら。江戸時代の「隣組」じゃあるまいし、何かあると「所属は?」と聞く日本の旧時代のメンタリティとは、いい加減サヨナラした方がいい。フリーランスの大人がいるのと同じように、フリーランスのローティーンがいて全くかまわない。先日ツイートしたホームスクーリングでいい。その中での振る舞いがうまくいくにせよ、うまくいかないにせよ、特定の集団の中でのポジションで自分のアイデンティティを確立するのは、強靱(ロバスト)な生き方ではない。昨日まで大企業で「部長」と呼ばれていた人が、退職してただの人になる。「所属」で人を成すとそういうことになる。さまざまな集団、人とかかわる複雑ネットワークの中に自分を置くことは、生きる上での助けになる。ある研究によると、仕事は、友人の友人といった、弱い結合から来ることが多い。ネットがこれだけ発達した時代なのだから、一つの組織への「所属」の愚を悟った方がいい。中学校も会社も。


このような意見にはとても同意できる。



また、デヴィ夫人はアメブロで教育委員会を痛烈に批判している。
ネット上では様々な情報が飛び交っているが、本当に正しい情報を拾い上げることは難しいく、判断しかねるけれど、そのひとつひとつに憤りを感じる。

そして思うことは、なぜ誠意ある行動ができないのか。それでも人間なのか、と思う。
全てを明らかにし、そのひとつひとつを誠意を持って受け止め、罪を認め、償い、反省し、そして前へ進むのではないか。大人はなにを守ろうとしているのか?


ひとつの命がなくなったというのに。




誠意ある行動というのは、どんな場面においても、とても重要だと思う。自分を守ろうとして、事実を隠しきろうとしても、真実は確実に浮き上がる。そのひとつでも隠そうとしたって、何も解決なんてしないし、永久に心に残る。そして、前には進めない。






私は、いじめはなくならない、いじめをなくすことはできないと思っている。
「小さな世界」はこの社会の仕組みからして、なくならないかあらである。多様な世界はわかりづらいところにあるからである。だから、いじめを起こす子供が悪いんじゃない。子供は素直なのだ。人を蔑む心は人間の心の隅に誰しもが本当は抱えているものだと思う。大人はそれを制御しているから、社会生活が問題なく送れる。子供はまだ心のコントロールが未発達なのだ。まだ学ぶ途中。ましてや「小さな世界」にいては、それは表面に出やすくなる。だから、いじめはなくならない。

そもそも、根本的ないじめ撲滅は間違っている。根本的ないじめ撲滅を訴えるのであれば、社会の仕組みを変えなくてはならない。

そのうえで、いじめが起きた時の大人の対処が重要になる。人の生きる力と、心の強さを、大人は教えなくてはならない。それと同時に、多様な世界を見せ、逃げ道をつくってあげる。それが教育なのではないか。子供たちは、できない、わからないが当然だから、教えて育ててあげなくてはならないのだ。それが教育者としての教師なのではないか。教育者としてわが子のように子供を愛せないのだろうか。




いじめた側が悪いとか、いじめられる側が悪いとか、そんなことはどうでもいい。どっちも悪くない。そんなもの、ほんのほんのほんの小さなきっかけにしかすぎず、表面に出てくるものは素直な心というだけ。どんな行動が悪いことなのか、相手の気持ちはどうなのか、なぜそのような行動になったのか、強い心は何か、学べばいいと思うし、教えてくれるのが大人たちじゃないのか。







実体験として、いじめは小学校4年生の頃にありました。
転入してきた女の子が男の子たちの標的になりました。確か、原因は女の子の顔。性格は比較的大人しいタイプだったから、転入してきたばかりで、友達づくりも苦手な子だった。クラスのボスのような存在の男の子に目を付けられたから、クラスの男の子はほとんど全員がグルだし、女の子も避けるようにしていた。いじめの内容は、罵声を浴びせられたり、変なあだ名をつけられたり、ばい菌扱い、上履きや所有物を隠したり、捨てたり、靴箱の中に画鋲が入れられたり。
そういえば、よく思いだしてみると、その時の担任(女性)は全員で彼女の上履きを探させたことがあった。あとは、いじめのアンケートをとったことがある。それ以外には特に対処のようなものはなかった。担任がどの程度いじめを把握していたのかはよくわからない。
その時私は、みんなと分け隔てなく仲良くするタイプだったし、特に人間関係とかもあんまり考えてないような、悪く言えば脳みそ空っぽみたいな人間だから、その女の子と普通に接したし、クラス行事でグループを作るときだって、その女の子が一人になっていたら、普通に仲間に入れたりしたし、女の子が面白いゲームを自宅に持っていたから、普通に遊びに行ったりした。その後、わたしもいじめの標的になって、めちゃくちゃ悲しかったね。あんまり、「いじめやめて」とか大きな声で言ったりしなかったけど、悲しかったね。その女の子のことも特になにも考えずにいたけど、(基本的にいつもなにも考えてない私)自分がやられて初めてわかった感じ。でも、私一人じゃなくて、その女の子も同じだし、クラスの女の子たちは私に対して普通に接してたから、悲しいけど、別に平気だった。
そしたら、いつの間にかいじめなくなったんだよね。私は何も反応しないから、男の子は飽きたのかな。
結局その後、私もその女の子も家庭の事情で転校したんだけど、うちの母親はその女の子から私に対して、ものすごく感謝されたのよーなんて話してた。普通に一緒に遊んでただけだけど。


つまりね、いじめに悩んでる子がいたらね、気にしなくて大丈夫よ!
なあーんも考えないでいたら、いじめっこも飽きちゃうから。
いじめって、なにかしら反応があるのが、変な言い方だけど、たのしいって思われちゃうのよ。
大丈夫、世界は広い!!!
70億人もいたら、そのうちの6割くらいの人は、あなたを好きになってくれるよ。

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