All you need is love
あれから1年。
当時めずらしく家にいた私は怖くてつぶれそうだった。停電がすぐに起きたので、ひとまずブレーカーを落として、夜のために懐中電灯や電池、水を溜めて、家を出た。ひとまず近所でパートタイマーで働くお母さんに会いに行った。顔を見たらなんとなく安心したので、家に戻ったら、隣家の小さな男の子2人が怖かったのか、おうちから出ていた。少しお話して、彼らはリュック背負って友達のおうちへ。どうしようもないので、歩いて行ける距離のバイト先へお手伝いに行った。停電が続くと冷蔵庫の中のものが腐ってしまうので、ありったけの氷と保冷材を袋に詰めて、食材をまとめた。駅と直結したお店なので、電車が利用できない人たちであふれかえった店先で、店内の椅子を外に並べて腰かけてもらった。お年寄りにはカイロを配った。19時くらいになっても電車は動かず、その日の運休は確実だった。遠くから来ていたアルバイトの子もいたので、帰れなかったらうちに来ると良いよ、なんて話をしてたら店長が車で来てくれて、みんなちゃんと帰れた。2日くらい停電続いたっけな。すぐあとに計画停電でも停電があったから、どれくらい停電だったかはよくわからなくなってる。店先でカイロ配ってたり、声をかけたりしてたから、後日私にお礼にとわざわざ遠方からいらしてくれて、ストールをいただいた。ちょっとした私の行為が、安心感に繋がってたなら嬉しい。
テレビで津波の様子を見たり、原発の情報を聞いて、ずっとずっと泣くことしかできなくて、怖くて、寝れない日も続いた。ノジマくんがよく夜中に電話をくれて、私を安心させた。
“被災地に行きたい”その思いがずっとあった。
でも「被災地に行ってなにができるのか?」「本当に必要とされるのか?」「女だから大した力も出せずに邪魔してしまうのだろうか?」「万が一大きな余震が起きたら?」「衛生環境は?」そんな不安ばっかりがどうしても付き纏ってしまっていた。
それでも想いだけは強くあって、両親にボランティアに行きたいって言ったら、とても反対された。私が不安に思ってたことをそのまま言われた。大学の友達にも言った。
“やめた方がいい”それが答えだった。
想いだけが膨らんでいたけれど、「それでもそこに暮らす人がいるんだから、想いがあるなら形にしたい」ちゃんと実行しようという考えに変わっていった。ちょうど見つけた1泊4日のボランティアに登録して、ボランティア保険にも加入し、5月下旬に実現した。本当は1週間くらい行きたかったが、初めてのことだったので、少しでも、と思った。
夜行バスで新宿から石巻に向かう道中、起伏の激しい道路や止まった信号、景色が一変した。“なにもない”のだ。全てがそこからなくなっていた。5月下旬の石巻は日中は暖かくとも、朝晩はかなり冷えた。バスを降りると生臭いヘドロの匂いが充満していた。空気にこびりつくように。ヘドロの粉塵が飛散していることもあり、防塵マスクなしにはいられない。私たちは石巻グリーンロードの2日間ヘドロ掻きを行いました。掻きだして、土のう袋に詰めて、運んで。重労働でした。
石巻商店街の方々が一軒に集まって、小さな商店を開いてくださって、少しお話しました。思っていたよりかは元気を回復している印象でした。瞳の奥に深い悲しみを抱えて。その時に当時の石巻を写真に収めていた方から2枚写真をもらいました。それを見て、想いをずっと繋げていきたいと思う。テントで共同で夜を明かし、大切な水を分けあい、着々と作業を進めた。私達が清掃を終え岐路に着いた翌日、偶然にも、その公園で遊ぶおばあちゃんとお孫さんの姿を収めた写真をみることができた。うれしかった。
9月 南三陸町
9月には平泉、南三陸町、気仙沼、大島、松島へ行った。“南三陸はなにもなかった”半年経つというのに。南三陸ホテル観洋は絶景の露天風呂があり、最高だった。女将さんから当時の様子、9月時点までの歩み、困ったこと、不安、そんなお話をお伺いした。途中、涙ぐみながら。気仙沼から船に乗り、大島まで行ったが、大島も津波の被害を受けていた。平泉と松島は観光した。
また、石巻にいきたいな。
想いは繋がる。
どうか、どうか、未来へ。
かぞえうた
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